佐野常羽  〈サノツネハ:1871.7.3〜1956.1.25〉
 従2位動2等・元海軍少将・伯爵。日本のボーイスカウト運動における指導者道を確立した人。
 日本赤十字杜を創設した佐野常民の三男として1871年 (明治4年)7月3日東京麹町に生まれる。

 平貞盛と将門を討ち、功により下野・武蔵の両国守となった平安時代の武将藤原秀郷の末裔であり、北条時頼が立ち寄ったとき、大切にしていた鉢の木を囲炉裏にくべてもてなしたという「鉢の木」の話で知られる、佐野源左衛門常世の末裔である。
 のち海軍兵学校に入学し、明治35年に家督を継ぎ伯爵となる。

 東郷平八郎艦長のもとで砲術長、海軍高等通訳官、ドイツ大使館付武官、戦艦榛名艦長などを歴任。 大使館付武官時代、しばしばロンドンに滞在しボーイスカウト運動を見聞する機会が多かった。
 退役後、大正11年、栃木県佐野に唐沢義勇少年団 (後の唐沢ボーイスカウト) を結成以来スカウト運動に尽力するようになった。
 55歳の頃、京都の少年団運動の創始者で、五条大橋の近くに薬種商を営んでいた中野忠八氏(後の日本連盟総長久留島秀三郎の実兄)を訪ねて教えを請うたところ、中野忠八は関西弁で「あきまへん、そんな自分が暇になったからというて、えらいさんの遊び仕事にでけるもんやないわ。やめときなはれ。」と言下にこれを断わった。

 あきらめなかった佐野常羽は、店舖や表玄関ではなく勝手口から再三訪れ、辞を低くして面会を求めた。
 その身分も地位も省みない熱心さに中野忠八も感に打たれ、後にこの二人は意気投合して、日本のスカウティングの指導者養成に協力して、その基礎を築いたのである。

 大正13年の第2回世界ジャンボリーに参加し、その後ボーイスカウト国際会議、世界ジャンボリーに日本代表として参加した。
 昭和6年には、ベーデンパウエルより、ボーイスカウトの最高栄誉章「シルバーウルフ」を贈られた。この「シルバーウルフ章」を贈られたのは、日本では昭和天皇と佐野常羽だけである。

 日本のボーイスカウト運動においては、大正14年、指導者訓練所(のちの中央指導者実修所)を開設した功労がある。 これによって、日本におけるボーイスカウトの指導者道が確立された。昭和29年、日本連盟は「長老」の称号を贈り、翌年には、日本連盟の最高功労章である「きじ章」を贈った。
 昭和31年1月25日、86歳で逝去した。

 現在、ボーイスカウト日本連盟山中野営場の玄関に、佐野常羽の胸像が建ててある。また、山中野営場には「佐野広場」があり、佐野記念碑(道心堅固の碑)が建てられている。

 第2回世界ジャンボリーに参加した後、日本人として初めてイギリスのギルウェル訓練所に入所し、ここで「弥栄」を披露した。
 ギルウェル訓練所所長のJ.Sウィルソンが入所している13箇 国の指導者全員に、各国の「スカウト祝声」をやるように言われたとき、「弥栄」を行い、災いを転じて福となすという意味であることを説明したところ、所長は発声法は日本のものが一番よい。そのうえ哲学が入っていると喜び、以後、この「弥栄」をギルウェル訓練所の祝声とすと言った。
 このようにして日本「弥栄」は世界のスカウト用語となった。

 ドイツ大使館付武官として赴任する前に、尾上菊五郎丈についてスマイルの勉強をし、これがボーイスカウト運動に入ってからも有名な「佐野スマイル」である。
 佐野常羽の残した教えには「無私」「合作の心」「清規三事」がある。
 「清規三事」は実践行・精究教理・道心堅固であるが、語学に堪能でありこれを
  Activity First,Evaluation Follows,Eternal Spirit と英訳された。
 → 「清規三事」 参照  → 「祝声」 参照