| 古田 誠一郎 〈フルタ セイイチロウ〉 |
| ボーイスカウト日本連盟の先達。 明治30年6月27日、古田熊太郎の長男として和歌山市に生まれる。 若い頃、キリスト教徒となり洗礼を受けたが、父親から勘当された古田誠一郎は友人や先輩からお金を借りて神戸市中山手通り6丁目に三角形の家を借りた。 そこで焼芋屋を始めた。土曜日の晩になると遊びにきた近所の子供達を教会の日曜学校に連れて行った。 |
| 教会では宣教師のウォーカー氏と知り合い、イギリスのボーイスカウトのことを知った。 大正8年、古田誠一郎、ウォーカー氏らによって神戸ボーイスカウトが始まった。 |
| 大正11年、三角家の焼芋屋の前に1台の車が止まり、古田誠一郎は車に乗せられた。車の主は石橋為之介、神戸市長であった。「マツタケおばけのような帽子をかぶった青少年活動をやってもらいたいので、この家で生活しなさい。」と言って、門構えのすごい家に案内された。「いや、私は三角家の焼芋屋で結構です。」と断わったと言う。 |
| 大正12年9月1日11時57分に発生した関東大震災では、焼け野原をさまよう子供達のことを思い、矢もたてもたまらず、直ちに3,000人分のお菓子を用意すると、スカウトの制服を着用して船に乗り込んだ。東京で三島通陽を訪ね、指示を受けたのち上野公園などで子供達に配ることができた。 |
| 大正12年、ボーイスカウト年齢以下の少年達のために、ウルフ・カブの組織を作った。「須磨向上会ウルフ・カブ」と名付け、これが日本で始めてのウルフ・カブ(カブスカウト)であった。 |
| 昭和4年、第3回世界ジャンボリーに参加し、ベーデンパウエルと会見する。 昭和6年、聖ヨハネ学園園長に就任する。 昭和13年、イギリスのギルウェル実修所、少年部および幼年部課程を修了する。 昭和14年、アイスランドのレイキャビックにてベーデンパウエルと再び会見する。 昭和22年、大阪府高槻市市長に就任する。 昭和25年、ボーイスカウト日本連盟の総局長に就任する。 |
| その後、ギルウェル実修所よりDCCおよびAKLに任命され、中央実修所所長に就任する。 昭和55年、ボーイスカウト日本連盟功労章「さじ章」を受賞。 |
| 古田誠一郎氏の愛称は「パーやん」。 第3回世界ジャンボリーに参加したとき、佐野常羽団長より派遣団の会計係を命じられた。会計係の故をもって、船の事務長の英語名パーサーに因んで「パーやん」と言うニックネームで呼ばれるようになった。 |
| このニックネームを付けたのは、同じ派遣団の一員であった中村知氏であった。ベーデンパウエルに会見したことのある最後の日本人でもある。(平成4年12月3日逝去) |
| また、数多くのスカウトソングを作ったことでも有名である。 主なスカウトソングを列挙すると・・・・ 「旗あげの歌」、「いつも元気」、「ぼくの名は金太郎」、「ジャングルブックの歌」、「世界の総長」、「森の野営」、「われらの旗」、「めざめよ」、「リュックサックの歌」などがある。 |